オンリー・イエスタデイ 8「白血病」

 小学34年生のときに好きだったトモコのほかにも、私は白血病で女友だちを失っている。

 幼稚園からいっしょだったゼニタカジュンコで、家も近所だったので、何度か互いの家で遊んだ。顎が小さく、髪が自然にカールして、睫毛の長い優しい目をしていた。声に特徴があり、甘い蜜のような親しみのあるハスキーボイスだった。

 小学校では同じクラスになったことはなく、たぶん3年生か4年生のときに、転校していなくなった。

 思わぬ再会をしたのは、それから167年後。私が医師になって2年目のときだった。私は大学病院で麻酔科の研修医になっており、同じ病院に彼女が入院していたのだ。

 教えてくれたのはタノという同級生で、彼は血液内科で研修をしていた。

「ゼニタカジュンコさんて覚えてるか。おまえと同じ幼稚園やった人や」

 もちろん、覚えていた。驚きと懐かさが湧き起こったが、白血病で入院していると聞いて、一気に寒々しい気分になった。今なら骨髄移植や効果的な抗がん剤もあるが、当時、白血病はきわめて治療が困難だったからだ。タノに聞いても、状況はかなり厳しいようだった。

 私はほかの見舞客と重ならないよう、当直の夜にジュンコを訪ねた。病名告知はまだ一般的ではなく、本人には「治療のむずかしい貧血」と伝えてあるとのことだった。

 ノックをしてスライド式の扉を開けると、26歳になったジュンコがベッドに寝ていた。

「わあ、K君。久しぶり」

 ジュンコはやや下ぶくれになっていたが、目と声はむかしのままで、一気に幼稚園のころにもどった気分になった。

 ようすを聞くと、彼女は発病の経緯を話してくれた。

「友だちと香港に買い物に行って、帰ってきたら夕方に微熱が出るようになったの。旅行の疲れかなと思ってたんだけど、なかなか治らなくて、身体もだるくて、それで近くの医院で診てもらったら、すぐ大学病院へ行けと言われたの」

 夕方の微熱、身体のだるさ、そんな症状はいつでも起こりそうなものだ。それが白血病の初期症状なら、死の宣告を受けたも同然だ。私は自分の身に置き換えて恐怖を感じた。

「大学病院に来たらすぐ入院でしょ。なんか治療のむずかしい貧血らしいの」

 つまらなさそうに言うジュンコに、私はどんな顔をしていいのかわからなかった。

 病室の壁にクレヨンで描いた女の子のイラストが何枚か貼ってあった。聞くとジュンコが描いたものだという。

「イルカちゃんが好きなの」

 麦わら帽子にサロペットの愛嬌のある女の子は、たしかに歌手のイルカだった。

 ジュンコは独身で、私がすでに結婚していると話すと、「早いね」と笑った。ジュンコが結婚生活を送れることはまずないだろう。そう思うと、痛ましいものを感じ、私は長く病室にいることができなかった。

「また見舞いに来るから」

 そう言ってそそくさと麻酔科の医局にもどった。

 しばらくして、タノからジュンコが退院したと聞いた。思いのほか抗がん剤がよく効いて、寛解導入療法が終わったというのだ。命の危険がない程度にまでがん細胞が減ったということだ。再度、見舞いに行く機会は逸したが、嬉しい誤算だった。

 白血病の治療は、寛解導入療法、地固め療法、維持療法の三段階で行われる。維持療法まで到達できれば、ほぼ治癒と同じになる。

 翌年、私は研修を終えて、別の病院の麻酔科に勤務した。タノも近くの病院に勤務していて、偶然、地下鉄の出口で出会った。挨拶を交わしたあと、タノが言った。

「ゼニタカジュンコさんて覚えてるやろ。あの人、亡くなったぞ」

 不意打ちの報せに、私は言葉を失った。治療は順調ではなかったのか。

「治療の効果はあったんやが、副作用の肺炎でな。地固め療法は病気が悪くなる前にするから、症状がないのに入院せえと言われて、その治療で命を落としたんやから、医者を恨んでると思う」

 血液内科が専門の彼は、自嘲するように声を落とした。

 念のためにやった治療で命を落とす。自分の親が、妻が、我が身が病気になったとき、どうすればいいのか。

 目の前の現実は、何も答えてくれなかった。

(つづく)

 

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