オンリー・イエスタデイ 23「熱病」

 気が狂ったように勉強していた高校1年の3学期。2月に札幌で冬季オリンピックが開かれた。

 日曜日の午後、いつも通り勉強に打ち込んでいた私は、少し休憩がしたくなり、自室から居間へ行った。父がテレビでフィギュアスケートのフリーの演技を見ていた。

「この子、かわいいな」

 父がそう言ったのは、アメリカ代表のジャネット・リンだった。深紅のコスチュームにプラチナブロンドのショートカット。小柄ながら伸びやかな肢体に、屈託のない笑顔。

 何気なく見ていると、あっと思った瞬間、シットスピンで着地に失敗して尻餅をついた。彼女は金メダル候補らしかったから、転倒は大きな失点だ。かわいそうにと思った直後、彼女は両手をついて立ち上がるとき、笑った。うっかりミスをして、照れ笑いをするように。4年間の努力のすべてを注ぎ込んだ大舞台なのに、そこで転倒してどうしてあんな表情が浮かべられるのか。

 演技が終わったあと、私は勉強を再開すべく自室にもどったが、目の前の参考書の字が追えなかった。読んでも頭に入ってこない。脳裏に浮かぶのは、今見た氷上の演技ばかりだ。転倒しても笑みを絶やさず、最後まで滑り終えた深紅の妖精。

 16歳の私は、その日から彼女に対する熱情の虜になった。それは恋愛でも憧れでも、ましてや単純なファン心理でもない。落語「崇徳院」の若旦那同様の〝熱病〟としか言いようのない状態だった。

 それから私は、彼女の出ている新聞記事、雑誌、ポスターなどを集め、彼女が熱心なクリスチャンだと知ると、私も十字架のペンダントを買って、それを胸に下げ、彼女に会えるまではずさないと誓った。

 その年の6月、札幌オリンピックの映画が公開され、それに合わせてリン嬢が来日することになった。大阪の映画館に来る日はわかったが、何時に来るかわからないので、中間テストの前だったが、私は朝の1回目の上映から梅田の映画館に駆けつけた。

 夕方近くになって、いよいよ彼女が来るという噂が館内に広まった。多くのファンがロビーに集まり、私もその人混みに紛れた。しかし、あまりに混雑していて、彼女が来ても館内に入れるかどうか危うい状況だった。

 こんなところに来るはずがない。そう考えた私は、群衆をかき分けて映画館の外に出た。通りにもファンがあふれていた。私は路地を迂回して、建物の後ろにまわり、裏口をさがした。倉庫のような出入口があり、中に入ると鉄階段があって、2階の扉に続いていた。

 私は意を決して鉄階段を上り、灰色の扉の把手に手をかけた。鍵はかかっていなかった。中に入ると、踊り場のような空間があり、さらに奥に扉があった。私は胸の高鳴りを押さえて、奥の扉に手をかけた。ここも鍵がかかっていなかった。

 わずかに開くと、関係者とおぼしき人たちがいて、その向こうにジャネット・リンが背中を向けて立っていた。白い襟のついた紺色のワンピース、プラチナブロンドの髪。紛れもなく彼女自身が数メートル先にいる。私は飛び込んで「あなたの讃美者です」と跪きたかった。だが、身体が動かなかった。

 彼女の後ろ姿を見つめていたのは、ほんの数秒だっただろう。私がのぞいていることに気づいた関係者が、いきなり扉を閉め、中から鍵をかけた。ふたたび扉を開くことはなかった。

 私は傷心の想いに耐えきれず、帰宅後、彼女を招いた新聞社気付で英語の手紙を書いた。あなたに会いたくて、朝から映画館で待っていたけれど、会えなかった。あなたが事務所にいたとき、扉の外までたどり着いたのだが、声をかけることができなかった。自分の勇気のなさが悔しいと。

 その手紙を投函したのは、彼女が離日する前々日だった。読んでもらえるかどうかぎりぎりのところだ。万一、返事をくれる気になったときに備えて、返信用の封筒も同封した。しかし、彼女が帰国した記事が新聞に載ったあとも、当然ながら、返事は来なかった。

 それから何日かすぎたあと、その日はたまたま私の誕生日だったが、高校から帰ると、郵便受けに見覚えのある封筒が入っていた。私が返信用に入れた封筒だ。

 まさか、と思いつつ開封すると、日本語の手紙と、「Love & Peace Janet Lynn」と書いた紙が入っていた。手紙にはこうあった。

「あなたの手紙は、リン嬢が帰国されたあとに届いたため、本人にお渡しすることはできませんでした。代わりに予備にもらっておいたサインを同封します」

 17歳の誕生日に、思いがけないプレゼントだった。

 夏休み、私はそのサインのお礼も兼ねて、前回より丁寧かつ長文の手紙を書いて、イリノイ州の彼女の自宅宛に送った。キリスト教的な愛についての疑問と悩みについても書いた。熱心なクリスチャンである彼女から返事がもらいやすいと思ったからだ。もし返事が来て、文通がはじまれば、彼女に会うことも夢でなくなる。そんな妄想にも取り憑かれていた。

 返事は思いがけないときに来た。翌年の2月。彼女の自筆で、私の悩みは理解できる、とにかく祈りなさいと書いてあった。

 しかし、私には何の感激もなかった。そのとき、すでに熱病は冷め、私は半年前とはまったく別の人間になっていたからだ。

(つづく)

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