高校2年の組替えで、私はふたたびAと同じクラスになった。小学校、中学校から3度目だ。奇しくも、毎回2年生のときに同じ教室で学んだことになる。
始業式の日、教室に入ると、先に席に着いていたAが、私を見て「よう」と愛想よく手を振った。以前の嘘つき呼ばわりから、私はAに見下されていると思っていたので、この反応は意外だった。
高校2年では、新しい教科として、倫理社会が加わった。担当はホッタという半白髪の男性で、垂れ目に肥満気味の浮き世離れした雰囲気の教師だった。内容も哲学がメインで、それまでの教科とはまるで印象がちがった。
授業はギリシャ哲学からはじまり、ソクラテスの「無知の知」や「不可知論」、プラトンの「イデア論」、アリストテレスの「論理学」や「自然学」などを、ホッタは鳥のような甲高い声で講じた。それは、勉強を単なる成績向上の手段としてしか考えていなかった私に、大きな衝撃を与えた。大袈裟に言えば、これは勉強ではなく、思想の手ほどきで、思想によって認識の世界が変わるということに気づかされたのだ。
たとえば「不可知論」では、神が存在するか否かは、人間の知性では感知できないものなので、議論すること自体、意味がないとなる。このひとことで、信仰も無神論も一気に無意味になってしまった。
「イデア論」では、真にこの世に実在するのはイデアであって、人間が感知しているのは、その影絵のようなものだという。そう言われるだけで、自分の見ているものの奥に、本質的な何かが潜んでいるような気がしてくる。
「論理学」でも、三段論法には反論のしようがなく、「自然学」では、万物の成り立ち、運動、時間、空間などが論じられ、無限と有限のめくるめくイメージに、めまいを覚えるような魅惑を感じた。
中でも、私がもっとも強く惹かれたのはデカルトだった。ホッタは教室の空気に突き刺さるような声で、多感な高校生の心を揺さぶった。
「デカルトはこう考えたんです。たとえば、我々が夢の中で走っているとき、実際はベッドの上にいるのに、自分では走っていると信じている。であれば、今、こうして教室で授業を受けていると思っている君たちも、実際はベッドの上で眠っているのかもしれない。すなわち、この現実は疑わしいということです」
多くの級友たちは、そんなバカなというように笑った。しかし、私は笑わなかった。今が夢でないと否定する証拠はない。なぜなら、夢を見ているとき、これが夢だと認識したことは一度もないのだから(夢の中でこれは夢だと認識した人もいるかもしれないが、そう認識している自分が、夢の中にいることまでは認識していないだろう)。
ホッタはクラスの失笑をものともせずに、続けた。
「つまり、デカルトによれば、この世のすべては疑い得るということです。見たもの、聞いたもの、触れたもの、時間も空間も過去も現在もすべてです。しかし、何か絶対的に疑い得ないものはないのか。そう考えて到達したのが、疑っている自分の存在だったんですな。なぜなら、自分の存在を疑うためには、それを疑う存在が必要となり、その存在を疑うなら、さらにまたそれを疑う存在が必要となるからです。すなわち、どこまで疑っても、疑っている自分の存在だけは疑い得ない。これがすなわち、有名な『我思う故に我あり』、〝コギト・エルゴ・スム〟なんです」
この説明で、私はそれまで無意識に信じていたものが180度反転し、世界がまるでちがったもののように感じられた。目からウロコどころではなく、第3の目を与えられたような衝撃だった。
さっそく、私はデカルトの『方法序説』を購入し、熱心に読んだ。多くの級友は、倫理社会の授業にさほどの興味を示さなかった。しかし、私以上に深い理解を示したのが、Aだった。
Aは私のように特定の思想家に入れ込んだりせず、それぞれの議論や思想を、鋭く批判し、あるいは評価していた。私がデカルトに心酔したことにも、さほど反応しなかった。そのことに、私は言いようのない劣等感を抱いた。
(つづく)