オンリー・イエスタデイ 25「貧乏ゆすり」

 高校2年の1学期、私は相変わらず勉強に打ち込む日々を送っていた。

 おかげで成績は上がったが、模擬試験で名前が張り出されるところまではいかなかった。私の通っていた高校では、450人中上位20番までが、毎回、職員室前の廊下に張り出されるのだった。

 1年の夏休み以来、Aは読書に熱中して成績が下降していたが、そもそも勉強を軽蔑していたので、ずっと超然としていた。成績は私のほうが上だったが、頭のよさでは常に負けている気がした。批評の鋭さ、ウィット、現実を達観したような態度は、実に高校生離れしていた。

 Aがゲーテを礼賛し、『ファウスト』をひどく面白がったので、私も家にあった旺文社文庫で読みはじめた。理解できたのは、メフィストフェレスがファウストを誘惑する導入部だけで、あとの遍歴は読むのが苦痛だった。それでもAのレベルに近づきたい一心で読み通した。

 私がデカルトに心酔する一方で、Aはカント、ショウペンハウアー、ニーチェ、ウィトゲンシュタイン(彼は本式に「ヴィットゲンシュタイン」と発音していた)などを乱読していた。その思想のエッセンスを語るAは、私には神秘的にさえ感じられた。

 私は対抗して、キェルケゴールやマルクス・エンゲルスの『共産党宣言』などを読んだが、さっぱり理解することができなかった。

 深遠な哲学的思想に触れたせいか、Aは現世利益的なものや偽善、通俗性、予定調和などを嫌悪していた。自由奔放に生きることを旨とし、自らの欲望や衝動にも忠実であるべきだと考えていた。だから、したいことをする。いやなことは我慢しない。軽蔑も憎悪も激怒も抑えない。

 私はといえば、いろいろなことを我慢して、苦しい勉強に打ち込んでいた。1年からの積み重ねもあるし、クラブを途中でやめた負い目もあったので、やめるにやめられなかったのだ。その一方で、Aの孤高に魅力を感じ、哲学的態度に憧れ、自分もそのように生きたいと思っていた。

 何かにつけ個性的なAをまねて、私も既成概念に囚われないふりをしたことがある。数学のノートを、欄外の余白から使用したのだ。余白は会社が勝手に押しつけてくるものなので、そんなものには従わないというつもりだった。

「余白は無駄やろ。僕はそれを有効利用してるんや」

 誇らしげに言うと、Aは即座にこう返した。

「無駄があるのが、ええんやないか」

 そのひとことに私は打ちのめされた。無駄=よくないという世俗的な観念に、私が支配されていることを、瞬時に見抜かれたからだ。

 無駄があるからいいというのは、哲学的かつ高度な発想で、芸術や芸能にそれが不可欠であることは明らかだ。老子の〝無用の用〟にも通じる。

 Aに倣って勉強などくだらないと思いながら、その努力をやめない私は、Aにすれば、もっとも軽蔑すべき俗物だったかもしれない。7月の私の誕生日に、Aは手書きの短い手紙をくれた。折り畳んだ表に、銀の塗料で鷲と鉤十字の紋章が描かれ、『DER FÜHRER』と書いてあった。

「総統専用のレターペーパーや」

 ヒトラーの便箋を模したものだった。その場で開けようとしたら、「家で開けろ」と強く遮った。何が書いてあるのか、帰宅して開くと、いくつかのイラストと、次のような文言が書いてあった。

『17歳の誕生日おめでとう。心からの祝福を。心からなどと言いながら、不肖私メは、はなから心の存在など信じていない。ストア派並に禁欲的で、ソクラテスのように真実を愛する貴君にとっては、笑止千万のことであろうが。我が心のメフィストフェーレスより』

 イラストは相変わらず描写力抜群のソクラテスと、メフィストフェレスだった。これはやはり、揶揄と軽蔑のメッセージだなと、私は率直に受け入れた。

 そんな彼が意外な一面を見せたことがある。

 1学期の期末テストのとき、私の席はAの斜め後ろだった。試験中、私は無意識に貧乏ゆすりをしていたらしい。テストが終わったあと、後ろの席の生徒がそれを注意した。気になって集中できないからやめてくれと。

 すると、Aが「そうやねん」と相づちを打ったのだ。その声は妙に遠慮がちだった。

 ――Aが気を遣っている!

 ふだんのAからは、考えられないことだった。

 いつか、Aは自室で本を読んでいるとき、時計のコチコチいう音が気に障り、腹立ち紛れに時計をクッションに詰め込んで、ベッドの下へ放り込んだと言っていた。それでも気になって、読書に集中できなかったと、怒りを露わにした。そんな神経過敏なAが、いくら勉強に重きを置かないとはいえ、刻々と終了時間の迫る試験中に、横で貧乏ゆすりをされたら、さぞかし苛立ったにちがいない。通常のAなら、試験が終わり次第、激しく抗議しただろう。暴力を振るってもおかしくない。それを、自分から言いだすこともしなかったのだ……。

 このとき、私はAの中に、自分の想像とはちがうイメージのあることをかすかに感じた。

(つづく)

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