オンリー・イエスタデイ 26「銀縁眼鏡」

 高校2年のころのAの風貌には、一種独特のものがあった。

  7歳のときから彼を知っている私としては、ある種の異様さにますます磨きがかかった印象だった。

 Aは中学生になってから、近視の眼鏡をかけていたが、そのころは縁が黒と透明のプラスチック製のものしかなかった。それをAは高校2年のときに、銀縁眼鏡に変えた。泉鏡花や菊池寛がかけていたような丸眼鏡で、レトロだが、見ようによっては滑稽にも見えるものだった。

 銀縁眼鏡は、当時、ふつうの眼鏡では激しい運動ができないので、運動部の生徒用に売り出されたものだった。動いてもズレないように、耳にかかる部分が細いバネ製で、耳の後ろまで丸く伸びている。ふつうの眼鏡と印象が大きく異なるため、運動部の連中も恥ずかしがってか、銀縁眼鏡をかけている者はごく少数だった。それを運動部員でもないAがかけたのだから、明らかに自意識による選択だったはずだ。

 Aはその眼鏡の奥で、彫刻刀で彫り込んだような細い目を瞬かせていた。そこには深い知性と、凶暴さと、孤高の光があった。無数の読書に支えられた教養と、怒りに任せて同級生の耳を持って引き倒したり、教科書を燃やしたり、いきなり子どもを殴りつけたりする激情を知っている私には、Aの目は、周囲の級友たちの素朴で高校生らしい眼差しとはまるでちがって見えた。

 さらには、幼少時から目立っていた大きな耳も、Aの風貌を個性的にしていた。あたかも西洋の悪魔のような大きさで、これで先が尖っていれば、メフィストフェレスそのものだった。額は秀で、鼻は高く、唇には好色の気配が浮かび、顎は頑丈そうに引き締まっていた。

 Aはハンサムでも美男子でもなかったが、さしもの彼も、思春期の青年にありがちなナルシシズムからは自由でなかったようだ。それが彼をいたく傷つけることになる。

 相変わらず抜群に絵がうまいAは、古典の教科書の副読本の裏に、自らの戯画を描いていた。学生服姿で椅子に座り、傲然と構えている自画像で、丸眼鏡は全反射して目は描かれず、特徴的な耳をはじめ、顔そのものがこれ以上ないほど端正に描かれていた。しかも、全体は豊臣秀吉の肖像画よろしく、九等身くらいの堂々たる体躯だった。おそらく、自ら理想とする像を描いたのだろう。

 Aはそれをだれにも見られないように隠していた。私が見たのも一瞬だけだ。その一瞬を作ったのは、クラスの中でも飛び抜けてがさつで、脳の構造が単純そうなハヤノという生徒だった。何かの話題でAに近づき、机の上に伏せてあった副読本を断りもなしに手に取ったのだ。

 裏表紙に描かれたAの自画像を見るや、ハヤノは元の話を忘れて、頓狂な声をあげた。

「おまえ、こんなにカッコええかぁ?!」

 Aは反射的に副読本を取り返し、「勝手に見るな」と怒鳴った。ふつうならハヤノを突き飛ばすか、拳骨を食らわしてもおかしくない場面だ。ところが、Aの声と表情には、ふだんにはあり得ない羞恥と屈辱が滲んでいた。それが咄嗟に暴力のエネルギーを阻喪せしめたようだった。

 その気持はわかる。繊細な神経の持ち主にとって、己の美化ほど恥ずかしいものはない。それを他人に見られたら、死んでしまいたくなるだろう。しかも、Aは抜群に絵がうまい。それが禍した。自画像があまりにリアルに理想化されていたので、現実とのギャップが逆に際立ってしまったのだ。

 それ以後も、Aは自画像を描くことをやめなかった。ノートや教科書、教室の机などに描いた。それらはすべて極端に醜く、表情も偽悪化され、悪魔的な印象を与えるものだった。まるで、副読本の裏に描いた理想の自画像を呪うかのように。

(つづく)

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