オンリー・イエスタデイ 28「モルモン教」

 高2の1学期が終わるころ、私はモルモン教の宣教師と親しくなった。

 きっかけは、昼休みに街頭にいる宣教師に話しかけたことだ。モルモン教に興味があったわけではない。実地の英会話を鍛えたくて、アメリカ人と話してみたいと思っていたのだ。学校で習う英語は、仮定法だの過去完了だの、重箱の隅をつつくようなことばかりで、くだらないと思っていた(その実は、テストで思うような点が採れないので、反発していただけだ)。

 話しかけるのは、そうとう勇気がいった。まったく見知らぬ他人だし、しかも外国人で、自分の英語が通じるかどうかもわからない。最初のひとことをどう言い出せばいいのかもわからない。それでも思い切って「Excuse me」と言うと、相手が少しはにかむように微笑んだ。それで一気に気が楽になり、「May I talk with you for a moment ?  I’d like to improve my English conversation」と、しこたま練習したフレーズを言った。

 相手は20代前半のソバカスのある栗毛の気弱そうな青年で、あとで聞くと、彼も自分の前を行ったり来たりしていた高校生に話しかけたいと思っていたそうだ。しかし、その勇気がなかったので、私が声をかけたときは嬉しかったと言っていた。はじめから遠慮する必要などなかったのだ。

 しばらく立ち話をすると、近くに教会があるから来ないかと誘われた。私は喜んでついていった。英会話を鍛えたいと思ったのは、憧れのジャネット・リンに会いに行くためだ。笑わないでほしいが、当時は真剣に彼女に会いに行くつもりでいた。

 教会へ行くと、事務室のようなところに通され、何人か宣教師が会話に加わった。英会話の練習ならいつでも来なさいと言われ、何度か通うと、日本人の牧師(?)が出てきて、笑顔で分厚い聖書のようなものを差し出した。

「これはモルモン経(けい)といって、教祖であるジョセフ・スミスが森の奥で発見し、翻訳した神の啓示を記した本です。お貸ししますから、毎日40ページずつ読んでください。きっと素晴らしい発見があるでしょう」

 そう言われて、私は勉強の時間を惜しみつつも、毎晩、言われただけの分量を読んだ。しかし、数日で投げ出してしまった。さっぱり内容についていけなかったからだ。

 それでも私は宣教師の元に通うことをやめなかった。英会話だけではなく、神の存在や死後の世界にも興味を持っていたし、実存主義的な疑問もあった。宣教師なら私を納得させてくれるのではないか。そう思って、デカルトから仕入れたアイデアを、長い英文にして持って行った。

「走っている夢を見ているとき、自分は走っているつもりでも、実際にはベッドに寝ている。現実で走っているときも、自分は走っていると思っているが、実際はちがうかもしれない。そう考えれば、すべての認識は疑わしいのではないか」

 英語で懸命に質問すると、宣教師はこう答えた。

「現実に走っているときは、実際に走っている。夢とは思わない」

 いやいや、と私は同じ主旨を繰り返したが、議論はまったくかみ合わず、宣教師は自分たちの教理を押しつけるようなことばかり言った。

 私は失望したが、礼拝にも参加してみた。日本人の指導者が話すというので、そこに一縷の望みをかけたのだ。

 指導者は声高らかに言った。

「我々の元を去ろうとする者を、我々は引き留めはしない。彼らは自由に行ってよい」

 私はその言葉に感心した。ほんとうに確信のある者は、このように平然としているものだ。ところが、彼は直後にこう続けた。

「しかし、我々の元を去った者は、必ず不幸に見舞われるであろう」

 これでは脅迫も同然だ。神がそんな心の狭いこと言うのか。私はがっかりして、以後、宣教師の元にも通うことをやめた。

 そのとき、私の念頭に浮かんだのは、ニヒリスティックなAの顔だった。Aは明らかに無神論者で、口には出さなかったが、宗教などは弱者がすがるまやかしにすぎないと、心底、軽蔑しているようだった。

 私は自分の弱さを恥じ、神や宗教に気持を向けることをやめた。かと言って、確たる心のよりどころは、まるで見当もつかないのだった。

(つづく)

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