オンリー・イエスタデイ48「横道」

 高校3年生の1年間は、受験勉強の日々でなければならないはずだ。

 しかし、私は高校2年生の半ばに、クラブに復帰し、小説にも目覚めて、勉強時間が減ったのに、成績が上がったので、自惚れた気持で3年生に進級した。

 受験勉強など、ヴァルガー(俗物)のすることだと決めつけ、コム・イル・フォーなら、チョイと学ぶだけで好成績を取るべきだと考えていた。本音は勉強の苦しさから逃げていただけだったが、目の前にはエッちゃんとの付き合いがあり、小説家になる大志があり、それ以外にも下らないことでいろいろと忙しかった。

 私の通っていた高校は、毎年6月に文化祭があった。前にも書いた通り、私は団体行動が苦手で、みんなで何かをやり遂げて盛り上がるというのも嫌いだった。エッちゃんへの手紙にも、「目指すは孤高、胸には虚無」などと書いていた。だから、文化祭に関わる気などさらさらなかった。

 クラスでは、8ミリ映画を上映することで話が進んでいた。だれかが8ミリカメラを持っていて、写真部の生徒が撮影を買って出た。内容はヤクザ映画で、当時、NHKの大河ドラマで放映されていた「国盗り物語」をもじって、「組盗り物語り」という案が出ていた。ヤクザが組を取り合うということらしいが、音的にはバキュームカーの「汲み取り」を連想するので、私は密かに冷笑していた。

 撮影に続いて、監督や脚本の担当が順次決まり、いつもクラスの中心になっている連中が話を盛り上げていた。我関せずでそっぽを向いていると、配役の段になって、突然、主役の1人に私の名前が挙がった。冗談じゃない。私は断固、拒否した。エッちゃんへの手紙の手前、嬉しそうに文化祭などに参加したら、言行不一致も甚だしい。こんなに非協力的な態度をとっているのに、なぜ引っ張り込もうとするのか。

 しかし、嫌がれば嫌がるほど、面白がって押しつけるのが集団の心理らしく、数の力で押し切られた。ストーリーは任侠ヒロイン物になり、タイトルもいつの間にか「緋牡丹お龍」に変更された。私はお龍と対決する一匹狼のヤクザの役だ。

 賭場でお龍がサイコロを振るクライマックスでは、私が着流しの諸肌を脱ぐと、入れ墨に見立てたバラのシールがペロッと剥がれ落ちたり、かどわかされた娘役の女子が、泣く場面でどうしても泣けず、私の胸で笑いながら涙を拭ったり、乱闘シーンで帯がほどけたり、殺陣の手順が逆になったり(刀を受け止めるのではなく、受け止めた刀に刀を振り下ろす)、仁徳御陵の正面で斬り合い場面を撮影していたら、宮内庁の管理人に怒られたりと、NGの連続だったが、なんとか文化祭当日までにクランクアップした。

 教室での上映会にはエッちゃんも観に来たが、例によって明確な反応はなし。ただ恥ずかしそうにしていた。

 団体行動は嫌いなはずだったが、この8ミリ映画では私も大いに盛り上がり、自分のやせ我慢と言行不一致を思い知らされた。それでも文化祭が終わると、また孤高にもどり、クラスの中心グループからは距離を取った。

 ところが、2学期に体育祭が近づくと、私はまた担ぎ出されることになった。

 体育祭ではアーチといって、学年ごとに生徒が座るスロープ状の台の後ろに、巨大な立て看板のようなものを造ることになっていた。私は体育祭も嫌いだったので、1年と2年のときはどんなデザインだったか覚えていない。

 3年生は最高学年でもあり、最後の体育祭ということで、立派なアーチを造ろうということになったらしい。デザインは、そのころ絵のうまさが知れ渡っていたAに白羽の矢が立った。ところが、真の孤高であるAは、そんな注文に応じるはずがない。生徒会長が頼みに行くと、断っただけでなく、代わりに私を推薦した。

 生徒会長からそう言われて、私は仕方なく引き受けた。デザインはあれこれ考えた末、1936年のベルリンオリンピックのポスターを拝借することにした。月桂樹の冠をつけた黄金の巨人が、ブランデンブルグ門のシルエットから伸びあがる図で、縦長のポスターを横長にデザインしなおした。何度も下絵を描き直し、髭文字のロゴを入れ、オリジナルの荘厳な雰囲気を再現するため、色調や背景にも工夫をこらした。

 放課後、2メートル四方のベニヤ板8枚を図書館前のコンクリートに並べ、細かな分割線を引いて、方眼紙に描いたデザインを8分割し、拡大して写した。Aは責任を感じたのか、放課後にいっしょに残って制作を手伝ってくれた。下絵の輪郭を描くだけで3日ほどかかり、ペンキを調合し、塗っては乾くのを待ちながら、ペンキまみれになって描いた。全行程は1週間ではきかなかった。

 絵ができあがると、丸太を組んでアーチに仕立てるのは、祭り好きの連中が手伝いに来て、2時間ほどで組み上がった。達成感はあったが、何となくバカバカしい気もした。描いたのはAと私なのに、“みんなで造ったアーチ”みたいな盛り上がり方だったからだ。心が狭いのはわかっている。だが、苦労の度合いがちがうやろ!という気分だった。

 体育祭が終わり、2学期も後半になって、いよいよ受験が目の前に迫ってきた。それでも私は受験勉強に全力を尽くすことを潔しとしなかった。勉強などはヴァルガーの……と、飽きもせずワンパターンの現実逃避でやったことは、私と少数の友人の間で人気のあった社会科のモリ先生のための、ファンクラブニュースを手書きで作ることだった。

 レポート用紙に似顔絵を描き、モリ先生の授業レポート(雑談やギャグ、口調の特徴などで、勉強内容には触れない)や、直撃インタビュー、アンケート、果ては先生を主人公にした探偵小説まで連載した。モリ先生以外の教師もフィーチャーして、はじめはモノクロだったのを、途中から色鉛筆のカラー版にして、通巻8号まで作った。高校3年生の忙しい11月と12月にである。

 さらにクリスマスには、苦労してエッちゃんとのデートを敢行し、手作りの雪ん子をプレゼントしてもらって、昇天したりもした。

 高校1年生から2年生の前半にかけての狂ったような勉強漬けに比べ、何と横道に逸れた高校3年生だっただろう。ふざけた受験生だったが、胸の内には御しがたい苦悩と屈辱が渦巻いていたのだった。

(つづく)

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