今でもそうだが、Aと私の共通のアイドルに、漫画家の水木しげるがいる。
私が水木漫画に触れたのは、小学校4年のとき、別冊少年マガジンに掲載された「テレビくん」を読んだのが最初だった。それまで「鉄腕アトム」や「鉄人28号」「伊賀の影丸」など、ハンサムな正義の味方に慣れていたところに、突然、ジャガイモみたいな顔の主人公が現れて、驚いたのを覚えている。アイスクリームの名前が「ヒマラヤ」だったり、ナショナルをもじった「ナイショでんき」なども新鮮だった。
そのあとも、「死人つき」や「墓場の鬼太郞」シリーズの「手」「地獄流し」「おばけナイター」などを愛読し、小学5年で「悪魔くん」が実写化されたときには、毎週、欠かさずテレビの前に座った。
中学生になると、KC(講談社コミック)で「ゲゲゲの鬼太郞」を読むようになり、享楽主義に陥った鬼太郞が「ナンダカ族」に騙されたり、ネズミ男がガマ令嬢に惚れたりする「夜話編」を愛読した。Aも水木漫画の読んでいたようだが、当時は熱に浮かされるほど偏愛していたわけではない。
本格的に水木しげるの虜になったのは、高校2年で同じクラスになったAが、預言者のごとく水木漫画の真髄を語るのを聞いてからだった。
たとえば「錬金術」という短編は、ネズミ男扮する「丹角先生」が、嘘の錬金術で貧しい三太一家を夢中にさせる話だが、それについてAはこう語った。
「三太がネズミ男に、これ以上、両親をまどわさないでくださいと言いに行くやろ。するとネズミ男がこう言う。『錬金術は金(きん)を得ることではなく、そのことによって金(かね)では得られない希望を得ることにあるんだ』。そのあとドアップになって、強烈にうそぶく。『人生はそれでいいんだ……』ってな」
Aにそう言われると、たしかに人生をまじめに追求しても、それは単なるまやかしの幸福を求めることにすぎないような気がした。
「悪魔くん千年王国」という長編には、ヤモリビトに身体を乗っ取られた家庭教師の佐藤が、絶望のあまり、喫茶店で他人のコーヒーを飲んでしまう場面がある。怒るカップルの男性に、ヤモリビトの佐藤がこう弁解する。
「あなたがたのような幸運にめぐまれた 鼻の下の長いおかたにはわからないかもしれませんが まずしい者はより貧しく……富める者はより富をたくわえる…というのが現実です」
これについてAはこう語った。
「メガネのサラリーマン風の男が立ち上がって、『ぼくはあなたのリクツをきこうとしているんじゃありませんよ! 一ぱいの上等のコーヒーをどうしてくれるかと申しているのですヨ!』と詰め寄るやろ。そうすると、ヤモリビトの佐藤は横を向いて、『チェッ』と顔をしかめる。これがいいんや」
サラリーマン風の男は世俗の代表で、佐藤は人生の深淵に直面した孤高の存在である。両者が理解し合うことは永遠にない。Aは水木漫画に隠された真意をそう喝破しているようだった。
ほかにも、ネズミ男が発する名セリフを再現してみせてくれた。
「バカタレ! 勲章をもってる人間がウソをつくものか」(「勲章」)
「なんでも政治にたよりたがるのは貧乏人のわるいクセよ」(「マンモスフラワー」)
「長い間身体を動かすことなくめしを食っておるエライ人間じゃ」(「合格」)
「わしが人間から高等な生気を吸いとったからとて何が悪い……人間より高等な生物として当然じゃないの」(「不老不死の術」)
Aの影響で、私も水木漫画を読みあさり、数々の箴言に触れた。
「美? それは十分に芋を食べてから感ずることですわ」(「子どもの国」)
「そうです 『悪』に対する免疫性こそ大政治家の資格です」(同)
「子供がママゴト遊びで気持ちのいい家庭を夢想するように 百姓宮川久次郎は 剣術で結構 武士の気持ちにもなれ 気分もさわやかだった」(「劇画近藤勇」)
「世の中の奴はどん欲な奴ほど無欲ぶるのですよ……そして一番よけい物を取るものです」(同)
「河童は大昔は人間よりすごい文化をもっていたんだ……だけど 文化があまり河童を幸福にしないことがわかったので 河童は自然に帰ったのだ」(「河童の三平」)
「雲助といい争ったとあっては武士の品位を傷つける 俺はむしろ品位という名の下に人を軽蔑する快感にひたるくせがあった」(「新講談宮本武蔵」)
「名前をのこして満足する人もいるが 名前なんて一万年もすればだいたい消えてしまうものだ」(「偶然の神秘」)
ほかにも数え切れない名言・至言があり、そのドライで赤裸々な慧眼に、17歳の私は激しく心を奪われた。水木しげる的な目で世の中を見ると、常識や公徳心、正義や善意の裏に潜むあさはかさや欺瞞が、透けて見えるように思えるのだった。
(つづく)