オンリー・イエスタデイ 5「多動性障害」

 私自身のことも少し書いておこう。

 小さいころから私は落ち着きがなく、1年生のとき、授業中におしゃべりをしてよく立たされた。ほかにも2人、よく叱られる子がいて、あるとき私を含む3人が放課後に残された。担任は女の先生で、教卓で採点か何かをする間、私たちは教室で待つように言われた。うちの1人は神妙にうつむいていたが、私はもう1人といっしょにふざけ合っていた。

 仕事が終わったとき、先生は神妙にしていた子の態度を評価して、先に帰る許可を与えた。しまったと思ったが手遅れで、残った2人は厳しい説教をくらった。

 しばらくすると、もう1人の子の母親が心配して電話をかけてきたらしく、先生はその子にも帰る許可を与えた。私は職員室に連れていかれ、廊下で立たされて泣いた。その日は書き方の習い事に行かなければならなかったので、焦っていたのだ。

 校長が通りかかって、泣いている理由を聞いたので、私はそのことを伝えた。校長は担任に事情を話して取りなしてくれた。

「習い事に行きたいから泣いてるんか」

 担任にそう聞かれたとき、「ちがいます、反省して泣いてるんです」と言おうとしたが、しゃくり上げるのを止めることができず、質問を肯定しているように受け取られてしまった。

「あきれた。こんな子、うちのクラスにいらんわ」

 担任がとなりの同僚に言うと、その先生も「うちにもいらんわ」と調子を合わせた。私は孤絶感に襲われ、いっそう嗚咽を止められなかった(3年生でクラス替えがあったとき、私はその「うちにもいらんわ」と同調した先生のクラスになり、どうしようかと思ったが、先生は覚えていないようだった)。

 1年生の3学期になって、学級委員が選ばれることになった。男女2人ずつを担任が指名したが、うちの1人はAだった。Aは勉強ができたから当然のことである。

 2年生の担任は男の先生で、1学期の学級委員にやはりAを選んだが、これも順当な人選だった。

 2学期の始業式の日、朝礼で並んでいると、担任が私のところに来て、「おまえを学級委員にするけど、おとなしくせなあかんぞ」と言った。「おまえしかおらんのや」とも言った。子どもながら、先生がいやいや選んでいるのがわかった。もう1人は転校してきたばかりの男子だったので、よほど人材がなかったのだろう。私は担任に選ばれたことよりも、学級委員のバッジがもらえることが嬉しかった。

 教室に入ってから、担任は私にこう言った。

「おまえは授業がはじまる前に騒いだら、タニモトさんに叱ってもらうからな」

 タニモトさんは女子の学級委員で、成績優秀のまじめな子だった。私はタニモトさんを恐れ、教室では静かにするように注意していた。しかし、それもはじめだけで、すぐふざける悪い癖が出た。すると、タニモトさんは黙って私の半ズボンの太ももをつねった。私はあまりの痛さにまた泣いた。タニモトさんはやりすぎたと思ったようだったが、悪いのは私だといわんばかりに、泣きべそをかく私を無視していた。担任が入ってきて、事情を聞いたので、タニモトさんが怒られるかなと期待したが、担任は何も言わなかった。

 そのうち、授業中に騒ぐ癖が直らないので、担任は私を学級委員の格下げにした。もう1人の男子学級委員の助手になれと言ったのだ。自分のほうが前からこの学校にいたのに、なぜ転校生の助手にならなければならないのかと、屈辱を感じた。

 今から思うと、私は軽いADHA(注意欠陥多動性障害)だったのかもしれない。小学校の間はずっと先生に、「じっとしてなさい」と怒られ続けたし、忘れ物やテストのうっかりミスも多かった。

 そのせいかわからないが、2学期が終わる前に、私は大事にしていた学級委員のバッジをどこかに落としてしまい、とても悲しかった。

(つづく)

 

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