オンリー・イエスタデイ 15「ねむらし屋の息子」

 Aに頭頂部を殴られたスミダは、母親が手芸店を営んでいた。それでAは、スミダのことを「毛糸屋の息子」と呼んで、馬鹿にしていた。

 余談だが、今は「○○屋」という言い方を小説で書くと、校正で直される。その職業を蔑視していると受け取られるからだ。「八百屋」は「青果業」、「床屋」は「理髪店」と書かねばならない。こちらに蔑視の意図がまったくなくても受け入れられない。

 Aがスミダを「毛糸屋の息子」と呼ぶときには、たしかに軽蔑の意図が含まれていた。越境で中学に来ていたサダは、家が毛織物の産地として知られる地域にあり、実家も毛織物業を営んでいた。だから、Aはときどきサダのことも「毛布屋の息子」と呼んで軽視した。

 Aの父親は高校教師だったので、「先生の息子」では蔑称にならない。それを見越して、級友を「○○屋の息子」と呼んでいたのだろう。するとサダは、苦し紛れにAを「教え屋の息子」と呼び返した。Aは苦笑し、さらにサダを馬鹿にした。

 私はといえば、父が医者なので、それこそ「○○屋の息子」と呼ぶのはむずかしいだろうと高をくくっていた。すると、Aは私をこう呼んだ。

「ねむらし屋の息子」

 父が麻酔科の医師だったからだ。これには自分のことながら、感心せざるを得なかった。「医者の息子」では蔑称にならないところを、「ねむらし屋」と言うことで、いかにも蔑むのにふさわしい雰囲気を出していたからだ。

 麻酔科は、私には幼いころから慣れ親しんだ科だったが、当時はまだ一般にはそれほど知られていなかった。父は元々外科医で、上司の命令で麻酔科に転科した1962年まで、大阪の国立病院にも麻酔科はなかった。手術のときの麻酔は、外科医が片手間にかけていたのである。

 中学3年生のとき、保健体育の教師が、「おまえの親父さんは医者らしいが、何科の医者や」と私に聞いた。

「麻酔科です」

 私はごくふつうに答えた。ところが、教師が頓狂な声でこう言った。

「麻酔科? そんな科、あるのんか」

 クラス全員が爆笑した。ショックだった。私は麻酔科は人に嗤われる科なのかと思い、顔を伏せて屈辱に耐えた。

 その少しあとで、クラブ活動のサッカーで足をすり剥いたとき、保健室に治療をしてもらいに行った。保健室にいたのは若い女の先生だった。

 手当をしながら、その先生が私に訊ねた。

「K君のお父さんはお医者さんなんやてね。何科?」

 私はまた嗤われるのだろうと覚悟しながら、小声で答えた。

「麻酔科です」

「そう。大事な科やね」

 保健室の先生がそう言ってくれたとき、私は部屋全体がぱっと明るくなるほど嬉しかった。救われた気がした。先生の顔がものすごくきれいに見えた。

 そのときのことを思い出すと、今も胸に熱いものが込み上げる。

(つづく)

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