オンリー・イエスタデイ 18「焚書」

 戦車模型の仲間で、コバシという同級生とAが私の家に遊びに来たことがある。コバシはA同様、プラモデルにモーターを入れず、実車の写真を参考に改造してディスプレイを愉しむマニアだった。だから、Aは私よりコバシを高く評価していた。

 部屋で遊んでいたとき、コバシが私の持っていたGIジョーという人形を持ち出して、いろいろなポーズをさせた。GIジョーはアメリカ兵を模した人形で、身長約30cm、布製の軍服を着て、ビニールの軍用ブーツを履き、手足や首の関節が自由に動くリアルなものだった。

 そのうち、コバシはそばにあった紐をGIジョーの首に巻きつけ、絞首刑ごっこをはじめた。Aもそれに加わり、吊したGIジョーを引っ張ったり、ブラブラと揺すったりして笑い声を上げた。私は横で見ていたが、何となく居たたまれない気持になって、「もう、やめろや」と声をかけた。しかし、コバシもAも一向にやめようとせず、徐々にエスカレートして、首に紐を巻きつけたままGIジョーを振りまわしたりした。

 私はその人形に特段の愛着があったわけでもないが、たとえ人形に対してでも、虐待するような行為を見るのがつらかった。そこで2人の気を逸らすために、手元にあった模型の塗装に使うスプレーを取って、コバシの首筋にほんの少し噴霧した。着色するほどでもない。色もダークイエローという砂漠仕様の色で、肌色に近いのでいいだろうと思ったのだ。

 ところが、コバシではなくAが私に激怒した。

「しょうもない人形なんか大事にして、人にスプレーをかけるほうがよっぽど悪質やないか」

 そう言って、スプレーの缶を取り上げ、注意書きを指さした。そこには『人体には使用しないこと』と書いてあった。

 Aが激怒したのは、人形に対して優しい気持を示すような私のセンチメンタルな態度を、腹に据えかねていたからだろう。彼はそういう偽善的な行為を徹底して嫌っていた。

 ほかにもAの感覚には、中学生として異質なものがあった。

 当時、給食はなく、昼食は弁当持参の生徒が多かった。弁当のない者は購買部でパンを買っていた。Aの弁当のおかずはいつも決まっていて、薄切り牛肉の炒め物と卵焼きだった。Aはそのことを恥じるように、「母ちゃんには自信ないからな」と卑下していた。

 あるとき、Aは弁当を食べずにいた。忘れたのかと思って聞くと、いつも購買部でパンを買っている級友に、150円で売ったと言った。彼はそれを小遣いにするつもりらしく、パンを買うこともしなかった。腹が減るだろうと思ったが、私にはそれ以上に母親が作った弁当を、級友に売って金を得るということのほうが驚きだった。

 その後、中学3年でAと私は別のクラスになり、ともに過ごす時間も減った。3学期の最後の授業が終わった帰り、Aが学校の近くにある墓地にいるのを見つけた。何をしているのかと近づくと、彼は焼き場のコンクリートの上で何かを燃やしていた。

「それ、何や」と聞くと、「道徳の教科書や」と答え、「ウハハハ」と邪悪そうに笑った。

 道徳の授業では、差別はいけない、人の気持を思いやらなければいけない、友だちを傷つけたり、仲間はずれにしてはいけないというようなことが教えられていた。いかにもきれい事めいていたので、私もくだらないと思っていたが、Aはそれ以上に耐えがたい憤りを感じていたのだろう。

 しかし、いくらくだらないと思っていても、中学生にとって学校の教科書は、ある意味、神聖なもののはずだ。粗末に扱ったり、捨てたりはできない。それを燃やすということは、私には想像もつかない冒涜のように思われた。しかし、Aは平気だった。むしろ、きれい事を広める欺瞞の象徴と見なしていたから、憎悪と軽蔑を込めて火をつけたのだ。

 黒焦げになる教科書を見ながら、私にはAの笑い声が、悪魔のそれのように聞こえた。

(つづく)

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