オンリー・イエスタデイ 20「ガリ勉」

 高校1年のときの私のガリ勉ぶりは、今思い出しても、常軌を逸していたと言わざるを得ない。なぜそんなことをしたのか。

 当時の私は、よく言えば純粋培養の優等生、悪く言えば無思慮な勉強オタクだった。医師の家系に生まれ、親類にも医師が多かったので、なんとなく自分も医師になるのだろうと思っていた。小学生のころからシュバイツァーやパスツールの伝記を読み、感動して自分も医学史に名を刻むような立派な医師になりたいと思ったりした。

 高校1年のときに読んで感動したのは、キュリー夫人の伝記だった。マリー(後のキュリー夫人)は、帝政ロシアの圧政に苦しむポーランドに生まれ、学問で身を立てるべく、パリのソルボンヌ大学に留学する。そのとき、貧しさのため部屋に暖房を入れることができず、寝るときは毛布の上に椅子を載せて、その重みで冬の寒さをしのぎながら勉強に打ち込んだと書いてあった。若き日のキュリー夫人は、そんなにまでして勉強に打ち込んだのかと、深く感動して、自分も誘惑や睡魔に負けまいと決心した。そこでスイッチが入ったわけだ。

 以後、私は前述のような過酷な勉強スケジュールを自らに課した。成績は上がったが、同じクラスでどうしても勝てない相手が2人いた。1人はツジムラ・タカシといい、東大の医学部を目指していた。もう1人はサマ・ヨシキで、京大の医学部を目指していた。私は3番手で、阪大の医学部を目指した。3人は互いにしのぎを削り、知っている英単語を比べたり、数学の公式を言い合ったり、いっしょに参考書を買いに行ったりした。

 ツジムラは帰宅部だったが、サマはバスケットボール部に所属しており、私もサッカー部に入っていたので、2人ともクラブと勉強の両立に悩んでいた。私は中学校でもサッカー部だったので、1年のはじめからレギュラーになり、公式戦にも出ていたので、その分、練習がきつかった。帰宅すると猛烈な睡魔に襲われ、勉強に集中できない。2学期まではなんとか持ちこたえたが、3学期に入って、最初の公式戦が終わったあと、私はついに先輩に退部を申し出た。

 そのときの悔しい気持は今も忘れない。自分に負けたと思った。先輩や同僚からは「根性なし」と罵られた。仕方がない。必死に頑張ったけれど、勉強とクラブのどちらかを選ばざるを得ない状況に追い詰められたのだ。自分はチームを見捨て、自分の成績を上げることを選んだエゴイストの裏切り者だ。そう思ったから、サッカー部の同僚に会うと、私は顔を伏せてその場を離れた。

 そんな思いまでしてクラブをやめたのだから、勉強で頑張らなければ何のためにつらい思いをしたのかわからない。3学期に続く春休み、私はまだ2年生にもなっていないのに、高3レベルの参考書と問題集を買ってきて、それに取り組んだ。起床から就寝まで、1日12時間以上机に向かったが、当然、スムーズには捗らない。それでも負けるわけにはいかないと、歯を食いしばって難問に向き合い続けた。

 あまり長く勉強に集中していると、頭がオーバーヒートしてボーッとしてしまう。そんなとき、私は家の近くを散歩した。いや、散歩などという長閑なものではない。徘徊、彷徨に近かっただろう。昼夜を問わず、地面を見つめながら、蒼ざめた顔のまま、夢遊病者のようにフラフラ歩きまわるのだ。独り言をつぶやいていたかもしれない。私は完全にノイローゼになりかけていた。

(つづく)

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