オンリー・イエスタデイ32「地下室の住人」

 トルストイに負けず劣らずAを魅了したのが、ドストエフスキーだった。

 彼は『罪と罰』を読んで、いたく感動したようだったが、中でも特に酔いどれの退職官吏、マルメラードフにシンパシーを感じたようだった。

 マルメラードフは、肺病の妻のストッキングを金に換えてまで酔いつぶれるダメ人間で、愛娘のソーニャを娼婦にすることによって生活しながら、そのことを自嘲的に居酒屋の客に言いふらすという卑屈で恥知らずな人物である。

 主人公のラスコーリニコフは、半地下の居酒屋で偶然、彼に出会い、その長広舌を聞かされる。

 マルメラードフのセリフ。

「貧は罪ならずと言いますが、貧乏も度を超すと、こいつはもう罪なんですな。貧乏のどん底に落ちた人間は、まず自分で自分を辱めにかかりますからな」

 世間的にはとうてい受け入れられない惨めな戯言だが、話を聞くうちに、ラスコーリニコフはある種の誠実さを感じ、親切に家まで送り届ける。

 Aもマルメラードフの中に、悲惨な境遇における精神の崇高さのようなものを見出して、共感していたようだった。それはあるいは、すでに成績が落ち目になっていた彼自身の心情そのものだったのかもしれない。そのため、逆に、彼は意地でも成績などは顧みず、読書や思索に時間を費やしたのかもしれない。

 Aに感化されて、私も『罪と罰』を読みはじめたが、私が惹かれたのは、やはりラスコーリニコフだった。彼の「凡人・非凡人」の理論には激しく魅了された。それは、ドストエフスキーがその敗北を描かんとした考えだが、17歳の私は、まるで雷に撃たれたような衝撃を受けた。なにしろ、数多の「凡人」は、シラミ と同じだというのだから。

 私が『罪と罰』に夢中になっていたころ、Aは同じくドストエフスキーの『地下室の手記』にのめり込んでいた。語り手の地下室の住人は、マルメラードフ以上に強烈にAを虜にしたようだった。

「地下室の住人はこううそぶくんや。二二が四、こいつがどうも気にくわないってな」

 そう語るA は、まるで思想的な同志に出会ったように嬉しそうだった。

 たしかに我々のまわりにいるのは、二二が四で動いているようなヤツばかりだった。ヤツらが重視している勉強のすべてが、二二が四に支配され、級友たちはだれもがそれを求めて勉強に励んでいた。

「あいつらは目隠しされて走らされてる馬車馬みたいなもんや」

 そう嘲笑するAに、私は内心で緊張しつつも、平静を装って、「なら、どうすればいいんや」と訊ねた。

 Aは厳かに答えた。

「何もしないのがいちばんいいんや」

 そのとき、私は自分がAに地下室の側の人間と見られているのか、馬車馬と見られているのかがわからず、曖昧な表情しか浮かべられなかった。

 何もしないというのは、勉強もしないということだ。Aが勉強をしないのは、ただサボッているのではなく、地下室の住人と同じく、確たる思想的な裏付けがあって、敢えてしていないのだった。勉強をしないでいれば、当然、成績は下がり、それまで積み重ねてきた努力も無駄になる。そればかりか、大学受験というやがて訪れる関門をくぐるのにも、大きな障害となる。私にそれができるのか。

 A自身はその言葉の通り、どんどん何もしない生活に入り込んでいった。それは表面上、無意志、無気力に見えたかもしれない(特に“馬車馬”たちにとっては)。しかし、実際は意識的なものであり、そこには深遠な思想的背景もあったのだ。

『地下室の手記』を読めば、地下室の住人がそうとうな偏屈で、神経過敏で、偏執的な人間であることがわかる。Aもおそらく同様の人間だったのだろう。だからこそ、「二二が四が気にくわない」という文言も、同志的共感を抱いたのだ。

 そんなAに、私には圧倒的な強さを感じ、とうてい太刀打ちできる相手ではないと認めざるを得なかった。

(つづく)

→公認サイト「久坂部羊のお仕事。」へ戻る