オンリー・イエスタデイ38「上下関係」

 Aと私は、ときどき授業を抜け出して、高校の近くを散歩した。体育館で集会があるとき、知らん顔をして学校の外へ出たり、昼休みにフラフラと歩いて、午後の授業がはじまってももどらなかったりした。

 我々が好んだのは、陰鬱な曇り空の日で、だれもいない池のほとりや草むら、水門とか御陵のあたりを歩きまわった。

 その間、Aは読んだ本の感想や、小説の説明などをしてくれた。級友たちが下らない授業を受けているのを意識しながら、2人だけで高尚な(と、当時は思っていた)会話を続けて、あてもなく散歩するのは、私には至福の時間だった。

 Aの思考の特徴は、物事を抽象的に捉え、論理的かつ総括的に把握することだった。それは彼の性格と、これまで蓄積した豊富な知識に基づくものだろう。生涯を通じて、その思考は雄大な広がりを持ち、また、つかみどころがなかった。

 それに比べ、私ははるかに具体的、即物的で、現実の結果につながるものを求めていた。私は何者かであることを希求し、ひとかどの人物になりたいと思っていた。Aは何者でもないことに満足し、その状態を誇っていた。彼は何者かであること自体、凡庸で俗物的だと見なしていたのだ。

 Aは悪魔的で虚無的で、優れた能力を持ちながら、いっさいの努力を放棄し、世俗的な成功や富や名誉を軽蔑していた。そして人間の本性に沈潜し、日々を無為に過ごすことを旨としていた。

 そんなAに、私は孤高を感じ、畏敬の念を抱いた。ところが、不思議なことに、AはAで、私との関係を重視し、常に私を上位に置くような振る舞いをした。

 たとえば、2人が並んで歩いているとき、狭い道に差しかかると、Aは必ず私を先に通した。あるいは、散歩の途中、分かれ道に差しかかると、どちらに行くかについて、彼は毎回、私の意見を尊重した。また、ほかのだれかが言えば、明らかにAに罵倒されるようなことを私が言っても、彼は見逃すか、苦笑するにとどめた。

 なぜなのか。

 ヒントは、ドストエフスキーの『悪霊』にあったと思う。Aは私にこう語った。

「『悪霊』に出てくる貴族のスタヴロギンは、まれに見る美貌の持ち主で、物腰も洗練されているが、生活に倦み、わざと奇矯な行動に出たりもする。親戚の知事の耳に噛みついたり、幼女を凌辱して自死に追いやったりしてな。その彼を象徴的な存在に祭り上げて、同志を集め、革命を実行しようとするのが、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーという男なんや。自分にはさしたる能力はないんやけど、陰でスタヴロギンを操って、目的を達しようとするんや」

 ピョートルは表面上、スタヴロギンを褒めそやし、賞讃し、言動に不満を抱いたときもそれを抑え、まるで従者のように振る舞う。Aはそんなピョートルに強い共感を抱いていた。彼が私に道を譲ったり、私の決定に従ったりするのは、自分をピョートルに模していたからではないか。

 とすれば、私はスタヴロギンの役を振られたことになるが、もちろんそれは大役すぎるし、勘ちがいもはなはだしい。人間的には、Aのほうがはるかにスタヴロギンに近かった。

 そんなAの態度を訝りながらも、私は2人の関係をそのままにしていた。目の前にもっと切実な問題が横たわり、心許ない気持でいたからだ。

 何者かになりたいと希みつつも、私は何なったらよいか、まるで見当がつかずいたのだ。

(つづく)

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