修学旅行の3日目は、高千穂から延岡に向かい、夕方、青島に着いた。Aと私は、またクラスの連中から離れ、相変わらず観光名所などは無視して、あちこちを歩きまわった。
青島にある溶岩が固まった波状の岩である“鬼の洗濯板”だけは、地球離れした景観だったので、Aも私も興味深く歩いた。たまたま、前夜Aの横にいたリョウコたち3人の女子が近くにいたので、我々と合流した。本をたくさん読んでいるリョウコの話はおもしろく、鼻眼鏡のミキは愛嬌があり、お嬢さんふうのカオリは美人なので、いっしょにいて気分がよかった。ふだん、女子には目もくれないAも、意外に楽しそうだった。
私たち5人は意気投合し、夕食のあとも落ち合って、温泉街の店を冷やかしたり、パイナップルの買い食いをしたりして楽しくすごした。女子と打ち解けることなど、これまで考えもしなかったが、別段、忌避するほどでもなかった。ただしその付き合いは、ほかの連中のようにチャラチャラしたものではなく、あくまで“コム・イル・フォー”(=上品で洗練されたもの)でなければならなかった。Aも同じ気持のはずだった。
午後9時すぎに旅館にもどり、私は部屋の畳に寝転んで文庫本を読みはじめた。そのころからAのようすがおかしかったが、私は気にせず読書に集中した。すると、彼はいつの間にか部屋からいなくなった。
1時間ほどすると、Aはどこかで酒を飲んだらしく、足下がふらつくほど酔ってもどってきた。そのAを、軽薄な級友たちが取り巻いていた。遊ぶことしか考えていない俗っぽい連中だ。そんなヤツらと酒を飲むなんて、“ヴァルガー”(=俗物)そのものじゃないか。その行為は、私には許しがたい背信のように思えた。Aは薄ら笑いを浮かべ、何か言いたそうにしていたが、私は敢えて寝返りを打ち、彼に背を向けた。
取り巻き連中は、私を無視して、酔った勢いでAを囃し立てた。
「大丈夫や」「きっとうまくいく」「勇気を出せよ」
話のようすから、Aは部屋の内線電話を使って、だれかに告白をしようとしているらしかった。酒に酔って女子に告白をするなんて、信じられないほど浅ましい行為だ。ひょっとすると、うだつの上がらないハシタニが、往路のフェリーで告白に成功したことがきっかけになったのか。馬鹿な。ハシタニこそ、Aが率先して軽蔑すべき相手なのに、逆に影響されるなんて堕落もいいところだ。いったいAはどうなってしまったのか。
それよりもっと驚いたのは、告白の相手がカオリらしいことだった。カオリはたしかに美人だが、話す内容はありきたりで、考えにも嗜好にも、まったく個性的な要素はない。よりによって、Aがそんな平凡な相手を選ぶなんてと、私は失望した。いや、怒りさえ感じた。
以前、Aと恋愛の話をしたとき、彼はカフカの『変身』に出てくるグレゴール・ザムザの妹のような女性がいいと言い、恋愛の態度は、ドストエフスキーの『賭博者』に出てくるポリーナとアレクセイのような関係がいいと話していた。
グレゴール・ザムザの妹は、慎ましく、兄思いで、老親のために、無粋な下宿人たちの前で、健気にヴァイオリンを演奏したりする。将軍家の家庭教師アレクセイは、わがままなポリーナの命令に、ドイツ語で「ヤー・ヴォール」と応じ、嬉々として隷従する。「ヤー・ヴォール=ja wohl !」は、「かしこまりました!」の意で、兵隊が上官の命令に従うときなどに使う返答だ。Aはそれをいたく気に入り、私の前で特に「ヴォール」を大袈裟に誇張して、演じて見せたりもした。
そのAが、単なる美人でしかないカオリに、隷従するために告白をするというのか。ほかの浮ついた連中たちのごとく、だらしのない恋愛を楽しもうとしているのか。まったく手ひどい裏切りだ。私は受話器を持ったまま、なお逡巡しているAに、背を向けたまま罵声を浴びせた。
「やめとけやめとけ」「どうせフラれる」「惨めになるだけや」
私は酒は飲んでいなかったが、苛立ちのあまり酔漢のように荒んだ声を出した。
そのうち、Aは意を決して、電話のダイヤルをまわした。電話は女子の部屋につながり、彼は照れくさそうにしゃべりだした。カオリを呼び出さなかったのは、当人が受話器を取ったからだろう。
私は我慢しきれなくなって、使っていた枕を思い切りAに投げつけて、部屋を出た。腹が立って仕方なかった。告白を受けたカオリも、キャアキャアはしゃいでいるにちがいない。まるで脳が空っぽの青春バカだ!
いくら修学旅行で気分が浮き立ったとはいえ、Aの行為は、私には到底受け入れられない俗悪なものに思われた。
(つづく)