オンリー・イエスタデイ50「白旗」

 大学の受験は、高校1年生のときからの志望校に願書を出した。

 校内模試では1度も合格圏内に入ったことはなかったが、外部の模試で1回だけ、奇跡的に合格できる成績を取ったことがあった。本番でふたたび奇跡が起きれば、合格も夢ではない。

 そんな強気な私に、担任の教師は志望校を変えろとは言わなかった。半ば呆れていたのかもしれない。

 入試の日、私は祈るような気持で受験会場に向かった。ちょうど『ノストラダムスの大予言』が売れていたときで、何か神懸かり的なことを期待していた。それしかすがるものがなかった。試験の出来には、一応の手応えはあったものの、合格は奇跡に頼る以外ないという気持に変わりはなかった。

 合格発表の日、私はなかなか発表を見に行く気になれず、朝からメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』を読んでいた。内容はほとんど頭に入らなかった。夕方近くになって、ようやく家を出て、足取りも重く会場に行くと、あたりにはもはや人影はなく、気怠い夕暮れが迫りつつあった。99%の悲観と1%の期待で張り出された紙を見ると、当然のことながら、私の番号はなかった。

 ──やっぱりな。

 頭をよぎったのは、絶望でも落胆でも怒りでもなく、ただの空無だった。

 浪人と決まれば、予備校を選ばなければならない。私はYMCAの予備校に行くことにして、2週間後、その試験を受けた。医進コースは豊中にあり、自宅のある堺からは遠いので、中之島の土佐堀校を志望した。クラスはABCに分かれ、それぞれ3クラスずつ、合計9クラスあった。クラスは成績順ではなかったが、優秀者はA1に集められるという噂だった。私はB3だった。

 ──なんでオレがB3やねん。

 予備校でも私は苛立ち、クラスメートにも距離を置いて、1日中、ひとこともしゃべらなかった。昼休みはひとりで人気のない屋上に上がり、金網越しに目の前を流れる土佐堀川の濁った水面を、暗い気持で眺めた。

 授業がはじまってすぐ、担任との面接があった。入試の結果はどうだったかと聞かれ、「落ちましけど、ギリギリだったと思います」と、強気の発言をした。ところが、しばらくして高校に返ってきた成績を見ると、合格ラインに100点ほども足りなかった。そのころ、1年間の浪人で上がる点数は30点前後と言われていたので、青くなった。このままではとても1浪ですまない。いや、それどころか、何年たっても行くアテのない根無し草になるのではないか。

 私は恐怖に駆られ、白旗を掲げて傲慢な自分に訣別した。受験勉強を嫌悪することもやめ、軍門に下ったつもりで素直に勉強した。予備校のクラスメートとも親しくなり、情報交換をしたり、互いに励まし合ったりもした。ホールで開かれる化学の授業は人気が高く、数人で早朝から席取りをしているグループがあったので、私も入れてもらい、いっしょに授業を受けた。

 予備校では定期的に模試があり、それ以外にも他校の公開模試を受けたり、母校の現役生の模試を別教室で受けたりもした。成績は上ったり下がったりで、合格圏内にも出たり入ったり。予備校では模試のたびに、「×」「?」「OK?」「OK」の4段階の判定が出て、私は「OK?」からなかなか上がらなかった。

 必死に勉強に取り組んでいるとき、難波の地下鉄に向かう通路で、1度だけAに出会った。彼は現役で京都の公立大学に合格し、農学部の学生になっていた。

「農芸化学科や。宮沢賢治が専攻した学問や」

 Aは進路を選んだ理由をそう告げた。さすがはコム・イル・フォーだ。現実に背を向け、世俗を超越している。それに引き換え、自分は小説家になるという志を持ちながら、即物的に医学部を目指し、受験勉強の奴隷と化している。努力や学びで得られる能力などに価値はないとうそぶき、信じるべきは天賦の才だと豪語していたのに、這いつくばるように勉強を続けている。実に未練がましい言行不一致ではないか。そのことを恥じて、私は逃げるようにAと別れた。

 12月に予備校の3者面談があり、私は母といっしょに受けた。指導の教官はそれまでの成績を見て、「志望校の合否は微妙やな。1ランク落とせば合格する」と言った。母が、「志望校は無理なんでしょうか」と聞くと、教官は「無理とは言わないが、1ランク落とせば合格する」と同じセリフを繰り返した。そして、「年明けの模試で、30番台の成績が取れれば、合格も夢ではない」と付け足した。YMCA予備校全体で何人いたか忘れたが、私は70番前後をうろうろしていた。

 面談の帰り、母は私に、受験校のランクを落とすかと訊ねた。私は横に首を振った。自信があったわけではないが、志望校を変えることは考えたこともなかった。

 年明けの模試で、私は35番の成績を取り、その席次表を面談をした教官から受け取った。「よく頑張ったな。これなら大丈夫」と言ってもらえるかと思ったら、教官は私のことなどすっかり忘れていて、何の声かけもなかった。

 受験の直前に、飼っていた子猫が死んで、1日中泣き暮れたりもしたが、入試では大きな失敗をすることもなく、無事に志望校に合格した。

 これで小説家になれる。私は何の根拠もなくそう思ったが、道のりはまだまだはるかに遠かった。

(つづく)

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