大学の同級生を“ヴァルガー”と見なしながら、自分だけは“コム・イル・フォー”でいようと努めていた私は、小説家になるという崇高な志(自分ではそのつもりだった)を胸に秘めていたため、大学の勉強に時間を費やしているヒマはなかった。
しかし、教養部から専門課程に進むには、単位を取らねばならない。であれば、ほとんど勉強せずとも単位をくれる、いわゆる“楽勝”の科目を履修しなければならない。そのためには、どの教授が“楽勝”かという情報が必要で、情報は級友に頼らざるを得ないので、私は仕方なく、少数の友だちを作ることにした。
たまたま、私の名列番号の前にクキタという学生がいて、彼は優秀で、なおかつ高校で私と同じくサッカーをやっていたので話が合った。クキタは現役生だから、入学当初、浪人生の私をさん付けで呼び、若干の敬意を払ってくれた。私はクキタと親しくなり、はじめは小説修行の妨げになるからと、入るつもりのなかったサッカー部に2人で入部した。と言っても、練習の厳しい全学ではなく、サークルに毛が生えたような医学部・歯学部のクラブである。
入部すると、おもしろい先輩もいて、練習のあとには喫茶店に寄ったり、繁華街をうろついたり、バカ話に興じたりもする。私も体育会精神を発揮して、その場を盛り上げ、道化を演じたり、先輩にツッコんだりして楽しく過ごした。
クキタは社交的な性格ではなかったが、高校の同級生に常にクラスの中心になるような男がいて、何となく私もそのグループに連なった。さらには運転免許を取ろうと思い立ち、先に自動車学校に入っていた別の級友に、いろいろ教えてもらったりした。その男もまた、派手好き、遊び好きで、周囲に賑やかな友だちがいた。
そんなことが続くうちに、やれ飲み会だ、合コンだ、ダンスパーティだと、浮かれたイベントに誘われるようになって、参加してみると、世俗的で刹那的だと感じながらも、楽しく、愉快で、快楽に満ちていた。Aに倣って孤高のコム・イル・フォーを目指していたはずの私は、いつの間にかクラスの遊び好きグループの一員になって、はしゃいでいた。
これではイカン。自分は小説家になって、文学の神髄に触れ、人生の深淵に向き合わなければならない。家に帰ってひとりになると、後悔と自責の念に駆られ、急遽、ドストエフスキーやカフカや三島由紀夫の小説を読み漁って、文学青年にもどり、“ヴァルガー”な級友たちとは距離を置こうと決意した。
しかし、クラブの練習はあるわ、レポートはあるわ、試験も近づくわで、級友の助けを借らざるを得ない状況になって、ふたたびクラスの中心グループに合流する。合流すればまた楽しい日々が続き、小説など忘れて、下らない冗談に大笑いし、合コンやスキーでナンパに精を出し、享楽に溺れることになる。
“ヴァルガー”と言っても、遊び好きの連中はガリ勉をして合格したわけではないので、それなりの知識と頭脳と余裕があり、バカ話にも独特の鋭さや穿った見方もあって、感心することも少なくなかった。
現世的な快楽に浸る級友たちと、孤高で形而上学的であるAの存在が、私の中で矛盾しながら存在していた。それはあたかも煉獄のような状態で、私を落ち着かせなかった。
京都にいるAとは、めったに会わなかったが、手紙のやり取りは続けていた。Aの手紙は独特の細かな文字で書かれ、長文で哲学的で難解だった。ときに得意の絵も差し挟まれていた。
ある手紙には、自分の将来を予測したという絵が、2パターン描かれていた。ひとつは妻子を連れたAの姿で、黒縁眼鏡にのほほんとした笑顔で、ポロシャツの下腹が出て、人の好い中年男になっていた。横に立つ妻は美人で、やや吊り目の目を伏せ、慎ましやかに夫に付き従っている。矢印をつけた注に、『グレゴール・ザムザの妹に似ていなくもない』とあった。子どもは5歳くらいの娘で、母親似だった。
もうひとつは人間ではなく、飢えた狼の絵で、疥癬病みのように身体の毛が抜け落ち、野垂れ死に寸前の姿として描かれていた。そのすさんだ目には、世を呪い、周囲を軽蔑し、あらゆる価値を否定して、孤高を貫いた厳しさと反骨が浮き出ていた。
『僕の将来はこのどちらかだろう』
私はもちろん、Aがやせた狼になることを期待したが、こぢんまりした家族を持って、小市民的に笑うAの姿は、浮かれた今を楽しむ私自身の未来を言い当てているようで、羞恥と自己嫌悪を感じさせずにはおかなかった。
(つづく)