Aは私が小説を書くきっかけとなった人物である。Aの何がそんなに私を惹きつけたのか、今となってはわからない。
Aと私が出会ったのは、小学校の入学式の日だった。私たちは同じクラスで、教室に入ると、色白の耳の大きな吊り目の少年が私の気を惹いた。向こうもこちらを意識したように思う。何となくいやな感じで、野良猫同士がすれちがったときに抱く一瞬の敵意みたいなものだったかもしれない。
担任の先生が入ってきて、「静かにしなさい」と言った。それでも児童たちは私語をやめない。
「静かに!」
先生が声を強めると、みんながいっせいに黙った。私は少し遅れたようだ。Aが私を指さして、「そこの白い帽子を持ってる子がしゃべってます」と言った。先生は無視してくれたが、私は生まれてはじめて告げ口をされ、ひどく動揺した。
そんな出会いだったにもかかわらず、私はAにおもねるような態度をとった。Aには魅力があり、何となく憧れさせるものがあったためだろう。彼はそれを逆手にとって、私をいたぶる気持になったのかもしれない。
あるとき、Aは私に「いっしょに帰ろう」と誘ってきた。Aの家は私の家の逆方向だったので、私はすぐに返事ができなかった。迷っていると、Aが「家までついてきたら、ええもんをやるぞ」と言った。
「ええもんて何?」
「来たらわかる」
私はAを信じて、彼の自宅まで行くことにした。途中、何度か「ほんまにくれるんやろな」と確かめた。「家についてから、何もなしはあかんぞ」と念を押しもした。Aは「ぜったいやる」と請け負った。何をもらえるのか、私は想像もつかないままAの家までついて行った。
「ここや」
Aは自宅に着くと、自分だけ家に入って行こうとした。
「ええもん、くれるんとちがうんか」
呼び止めると、Aはもどってきて、家の前のマンホールの上にペッと唾を吐いた。
「これや」
そう言って、家の中に入ってしまった。私は取り残され、Aの吐いた唾をじっと見つめた。マンホールを濡らした唾液の白い泡を、今もはっきりと覚えている。
私は怒ることもできず、ひとりで自宅に向かって歩きだした。よく晴れた日で、自分の家がとてつもなく遠く感じられた。
私が怒れなかったのは、一義的にはAが必ずしも嘘をついたわけではないと思ったからだ。彼は「ええもん」をやると言っただけで、何をやると約束したわけではない。唾が「ええもん」かどうかは、個人の判断による。私が彼の唾に意表を衝かれたとき、Aの目は「これが俺のええもんや」と、7歳にして狡そうに笑っていた。
唾がいいものであるはずがないのだから、私は怒ってもよかったはずだ。そうしなかったのは、私が彼に本能的に従属していたからだろう。Aには理不尽なことをされても怒ることができない相手だったのだ。
しかし、後年この関係は逆転する。Aが私には理解しがたい理由で私の下位にもぐりこもうとしたのだ。今、思い起こしてもその情動を不思議に思う。Aの思考は独特で、一般には受け入れられにくいかもしれないが、ある種の天才性を帯びていた。残念ながら、それが花開くことはなかったが。
(つづく)